It’s only a paper moon-つくりものにまつわる「リアル」について
この記事は、「AnotherVision members' Advent Calendar 2017」の一環として書かれたものです。
12月19日のぶんは、いのうえももこが書きます。(遅刻しました。すみません。しーばさんの誕生日なのに申し訳ない)(しーばさん誕生日おめでとう)
今日は、AnotherVisionのメンバーのひとりとして、謎解きの、それとも、それ以外のつくりものの、「リアル」と物語について、あるいはその言葉では収まらない世界についてを、少し書きます。謎解きに親しんだ方の間では比較的よく語られるテーマのように思え、既に語られた轍を踏んでしまっているところもあるかもしれませんが、温かく読んでいただければとても嬉しいです。
profile
いのもも
慶應義塾大学 法学部政治学科3年/AnotherVision/モラトリズム
Twitter ID:@66inoue_m
活動履歴:
映像制作-善人開発計画、seekin the gold、HACKERS、すべてが不可になる…
デザイン-ブラインドマインド、ナゾトキマジシャンズアカデミア(モラトリズム)…PM-ニブンノイチマッチ
etc.
ここは見世物の世界
何から何までつくりもの
だけど、私を信じてくれたなら
すべてが本物になる
それは1Q84の1巻の扉に書かれていて、確か村上春樹の筆ではなくて、何かの詩の引用なのだけれど、ゲームを遊ぶとき、ゲームをつくるとき、いつも頭を過ぎる。本を読むときも、映画を見るときも、英語劇の授業で私が教師からの韻の調子への文句を誤魔化しながら同じように一夜漬けで済ませようとした右手に台詞の隠したティターニアとの掛け合いを苦し紛れに演じているときにも、「VRリアル謎解きゲーム」というタイトルがこの頃は全く実現の形を帯びてきているけれど、言葉遊びじゃ片付けられない矛盾や疑問の色を含んで映ったときも、それは、いつも側にある。どちらかといえば、救済。いつでも、私たちの身の回りの事柄は虚構でありうるけど、ともすればそうしてあり続けて至る私たちの存在すら虚構であるということすら出来るけど、疑いようのない事実として私たちは有限であり、それは変わることがない、永遠に、永遠も全てを知ることも叶わない、ことによって、私たちが与えられた視点の小さな箱やそれを動かす自由の意味が大きくなる、というのは、私にとっては、概ね、及第点のーーというのはひとまず、考えても仕方のない憂鬱なことの帰結に据えるのに納得できる程度のーー考え方です。
せっかくなので、ゲームについて。
生来、あまりゲームに明るい方ではなく、特に多くの見聞の深い方の見ている(かもしれない)ところでゲームについて語るとなると、尻込みしてしまうのですが--ゲームというのは特別で、それは能動的であるからです。それであるのに、つくりものであるからです。能動的という言葉は大枠を捉えすぎていて、二つの文のつながりが理解に易いものではないというのなら「”存在する、尚且つ、選択するあなた”を包括したつくりもの」であるからのように思います。*1
それから、物語について考えるのなら、ーーこれもまた語るに尻込みしてしまう題材ではあるけれど、ーーそれは、時間や場所をもとに移り変わるもののように思えます。であるならば、「物語」の要は、時間や肉体や視点の固有性にあるとも思えます。
私たちの話をします。
私たちがつくっているものの名前は「謎解き」*2といって、そしてそれは時々「リアル謎解きゲーム」という名前がつき、あるいはある人たちにとってイメージされるものです。リアルという言葉は、どうやらゲームが含む物語にかかっているようです。
リアル#とは
現実、あるいは、本当のこと、のことです。
だけど、奇妙なことでありますが、ゲームにおいて、あるいは多くのつくりものにおいて、物語は体感的にリアルであることと同時に、あるいはそれ以上に、リアルでないことが求められています。生きるべきか死すべきかそれが問題であるところのディストピアが舞台とされるのが好まれたり、あなたが落ちこぼれの東大生であったり、魔法使いであったり、といった具合に。
そうして、リアルを求めることは、ゲームがつくりものであることと大きく矛盾して、困難を生んでいます。それは、時間や肉体や視点の固有性がつくりものそれ自体やそれの含める存在や選択の中には収まらなかったり、つくりものの外の世界の固有性に勝ち得ないものであったりするためです。誠にけったいなこと。
そうであるから、ゲームにおいてリアルを追求することは、とても難しいのだと感じ、解釈しています。そして、それに対して、私たちは、駒場祭の日に駒場祭を舞台にした周遊をやってみたり*3、演劇の力を借りてみたり*4、スタッフ全員白黒の服で揃えてみたり*5して挑戦しています。現実をつくりもののリアルに重ねてみたり、つくりもののリアルを現実に近づけてみたりで。
轍ふみふみしちゃったかもしれない祭りは、一旦、ここまでです。
二階堂ふみふみは 2かい do ふみふみなのでふみふみふみふみかもしれない。
舞台の上の私たちはどの影法師を踏みに歩けばいいですか?
ゲームの話じゃない。
どうしてもユニコーンに出てきて欲しくて、市街地のマクドナルドで、電話で話しているふりをしたことがあります、小学生のとき。空が飛びたかったので。ユニコーンというのは、信じる人の前にだけ現れると読んだので、みんなが信じていれば街中に出てきてもおかしくないから。2ちゃんねるのまとめサイトだったかに、”電車で隣の女子高生が、こういうことを話していて、感心した”というようなことが書いてあるのに、同意のコメントがたくさんついているのを見て、嘘でも、「私が話していた」ことが本当で、それが伝われば、内容を信じる人も出てくるのだ、と思った。
嘘は、全部が嘘だと、嘘だとわかりやすいものでしょう?
だけど、私という固有性があり、そしてそれが伝聞やあるいはそれが持つ匿名性を以って希釈されて、他の意味づけを持てば、本当に信じてくれる人もある、それは例えば戯曲の名作の台詞が咀嚼され、舞台の外で吐き出されて、解釈や吐き出された景色を纏ってまた誰かの口に伝わっていく、みたいなことで、話を聞いた人の窓枠を媒することで、それがあったこと自体は、誰も疑わなくなる、という発想です。それで、人の入りそうな窓際のカウンターの一つに座り、隣に誰かが来るたび、その週のはじめ買ってもらったばかりの携帯電話に向かって「森で見つけた」「今日も羊のお肉買って帰らなきゃ」「毛が落ちて大変」「つの、実は眠っている時、少し小さくなるの」「おばあちゃんにも見せてあげるね」という話を繰り返した。結果は、芳しくなかったけど。見込みが甘かった。
余談ですが、空を飛ぶ馬はユニコーンではなくペガサスだということです。
本当はそれは知ってて、でも、ユニコーンの方が、気性が荒くなくて、おうちで一緒にテレビ見たり、昼寝したり、しやすいと思ったから、ユニコーンが良かったの!
ずっと同じで、私は、人が何かを信じることに、興味があります。だから、疑うことにも。枠組みが外れるとき、現実と虚構が重なるとき。私には結局はそれしかなくて、どこにも行けないことを以ってどこかに行こうとしています。
信じて欲しい。
そのために、ずっと私は謎解きというゲームを作っていて、AnotherVisionにいて、画して、この文章を書いています。
本当のことというのは、疑われないつくりものの中に、時々宿ることができるのだと思います。それから、ちょっとだけずるい気持ちも。
This is Only a Paper Moon.
最後まで読んでいただいてありがとうございました。
12月20日の投稿は、一緒に遅刻したりしてない、shiryuくんです。
12月19日のぶんはいのうえももこが書きました。
*1:この考え方については、確か、ジェイン・マクゴニガル氏の「幸せな未来は「ゲーム」が創る」という本に多分に影響を受けています。
*2:実は、AnotherVisionがつくっているものの名前について、いつも私たちがなんと呼んでいたか自信がなくて、公式もメンバーの発言も遡ったのですが、結局のところ、それは少し曖昧なものであると思います。近日、公に「リアル謎解きゲーム」を制作しているという発信をしていることは少なく見えるのですが、制作に関わるメンバーがそう呼称していることは多々ある。ひとまず、「東京大学謎解き制作集団 AnotherVison」の名から私たちが作っているそれを謎解きとは呼ぶことは誤りではなさそうですから、そう呼びます
*3:神と天使と僕らの手紙/2019
*4:無彩色の隔壁/2016
*5:該当公演複数
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